日付:2011/01/04
社長挨拶
タイトル:花まつ物語2 ┃ (4)大阪での修行時代
大阪での修行時代、叔父は大変厳しく、吉章は毎朝5時に起きて市場に仕入れに行った。そして仕入れが終わり店に戻り開店準備、お昼はご飯を食べるだけの休憩だった。移動はトイレに行くのも駆け足で、閉店の7時までは、立ちっぱなしだった。
仕事といえば季節の旬に合わせた、イチゴ、みかん、メロン、バナナ、スイカなどを対面販売し、大声で呼び込みをする売り子だった。

夕方には足が棒のようになり、慣れない仕事にとまどいながらも4年間の丁稚奉公生活を過ごした。

この丁稚奉公で得た教訓のエピソードがある。

それは初めての給料をもらった時のことである。叔父は初めてのお給料を給料袋ではなく、松村吉章名義の二十万円の数字が印字してある通帳を渡してくれた。
初めていただいた二十万円のお給料の額は、高校を卒業したての吉章にとって、とても大きなものに感じた。
さらに、家賃・食事は叔父の家に住み込むことでかからなかった。

叔父は通帳を渡すと同時に
「よっちゃんの目標は、一千万円の貯金をすることや」
と付け加えた。吉章は、一千万円という額と手元にある二十万円とのギャップに困惑しつつも、一つの現実に気付く。
「ハンコがない・・・」

その通帳は、給料天引きの通帳だったのだ。
住み込み、三食食事付き、寝ることに不自由なない休みなしので生活であったのでお金はいらなかったが、たまに田舎にかける電話代や本を買いたい、散髪したいという小遣い銭は必要であった。

吉章と高校時代テニスのペアを組んでいた同級生が、大阪の大学にスポーツ推薦で入学し、好きなテニスをし、自由に生活をしている姿がとても羨ましく思えた。 
  
叔父はそんな吉章に対して
「よっちゃんいい仕事あるで?定休日の木曜日にやってみるか?」
ともちかけた。叔父がワンルームマンションを経営しており、そのマンションの掃除の仕事だった。ワンルームマンションは回転が速いため、引越しが頻繁に行われる。
トイレつきのユニットバスをはじめ、一室の掃除をすると五千円のアルバイト代がもらえた。
叔父のコレクションは、引越し者の残していった単身者用の小さな冷蔵庫、まだ着れる衣料をもったいないと自分の倉庫に積み上げていた。叔父は、まだ使えるのにと言って吉章に引越し者の残していったジャンパーを洗濯してくれた。
「よっちゃんこれきいや」
と渡してくれたジャンパーはオレンジ色のジャイアンツのジャンパーだった。吉章は阪神ファンのあふれる大阪で4年間、一人ジャイアンツのジャンパーを着ることとなる。
田舎者の少年は、ジャイアンツジャンパーのおかげか、逆にとってもかわいがられた。
吉章はこの掃除のアルバイトで散髪代や本が買え、さらに着るものまでついてきた。

またおじのユニークなコレクションのひとつに黄色いバケツがあった。守口市にある松下電器本社に果物を配達に出かけて帰りにバケツを持って帰ってきたのである。配達が終わり、車を止めていた、廃棄物のところから黄色のバケツを持ち帰り、黒マジックで始末と勤勉と書き手持ち金庫に使っていたのである。
松下幸之助はすごい人だと尊敬し、あやかるのだと、売上金をバケツにいれ自宅に持ち帰った。バケツにお金を入れてるとは誰もおもわんわな。と・・・ダム式経営ならずも、バケツ式経営である。  
バケツを持ち帰るのは吉章の仕事であった。その中から、翌日の仕入れのための現金を渡されるのであった。黄色いバケツから、仕入れてから売るのでなく、売れるから仕入れることができるといった現金商売の強みを教わった。

吉章の寝泊りしていた部屋の壁には、カレンダーの裏に叔父の人生哲学が書かれてあった。
「始末と勤勉」
と叔父のマジック書きの直筆で書かれていた。 

「よっちゃん、よぉ商売人見ときいや。」
「大阪の人間は、商売稼ぐのも上手やけども、見栄をはってお金を全部使ってしまうのも上手や。大事なことは、勤勉によく働いて、始末することや。」

始末とは、無駄遣いをしないことであるの意味が込められている。つまりよく働いていれば遊ぶヒマもなく無駄遣いをしない。お客さまの役に立ちつづける。無駄なことには投資をしない。現代風に言うと、ローコストオペレーションの原型である。

勤勉さこそが商人としての一番大切にすべく基本である。
18歳の吉章にはそれが言葉の意味の深さに気付くことは難しかった。

吉章は、二十歳の誕生日、成人式も仕事をして過ごした。テレビで成人式のニュースが流れると自然に涙が込み上げてきた。叔父はまた休みの日にもうひとつの提案をしてきた。

「よっちゃん、またいい仕事あるで。」
ともちかけた。お店の定休日は木曜日。木曜日の13時に寝屋川市と四条畷市の間にある打上団地に行って、鐘と果物を持って行き、団地の椛島さんを訪ねて、鐘を鳴らしながら果物を売って歩けという行商の仕事だった。

定休日前日、売れ残りの果物たちを軽トラいっぱい果物を積んで、叔父の言うまま出かけて行った。団地につき、鈴を鳴らした途端、団地の奥様方が現れ、果物はすぐに完売となった。売上は8万円だった。不安を抱えながら行った半面、言う通りにして完売できたので上機嫌で帰ったところ、叔父はアルバイト代に一万円を現金でくれた。嬉しかった。
掃除の仕事よりも割がいいと吉章は思った。

吉章は、調子に乗って、毎週それを続けていた。ある日、吉章は、隣の団地も行ってみることにした。張り切って多目に仕入れをし、軽トラを二t車に乗りかえて出掛けた。もっとたくさん売ると、もっとアルバイト代がはいると皮算用して出掛けた。

ところが、隣の団地では同じように鐘を鳴らすものの誰一人お客さまが下りて来ることはなかった。売れ残っても仕方がないので、一軒ずつインターホンを押してまわったが居留守を使われるか、断られるかのどちらかだった。

結局、売り残して帰ることになった。その日のアルバイト代は五千円だった。売れ残してしまったので仕方がないと吉章は反省した。
翌週、同じようにトラックに荷物をつけて出掛けた。椛島さんに先週あったことを相談すると、
「あちらの団地いくんだったら○号棟の牛道さんを訪ねなさい。」
とアドバイスをしてくれた。
「電話しといてあげるからね。」

と。その通り行ってみると、どれだけしても駄目だった団地の人も果物を買いに下りてきてくれた。おかげでその週は完売できた。叔父ははじめてアルバイト代を一万五千円にあげてくれた。過去最高のアルバイト代だった。

叔父は吉章のバイトのことについては多くを語らなかったが、後に椛島さんからそのいきさつを知ることとなる。

椛島さんは前、叔父の店の近くに住んでいた。椛島さんは団地ができて引っ越していかれた叔父の常連客でいらっしゃったこと、家が遠くなり買いにいけなくなったので叔父に果物を売りにきてほしいと前から頼んであったんだと。

吉章が軽トラで初めて行ったときも叔父が椛島さんに電話して、「おいしくて安い果物屋さんがくるから。」と近所の団地の奥様たちに口コミしてくれていたのだ。その話を聞いて、商人としての信用・信頼・看板の重さを痛感することになった。

吉章は、休みの日もがんばっているから売れたのだと過信していた自分に恥ずかしさを覚えた。叔父が長年積み重ねてきた信用と信頼がお客さまを呼んだのである。とても貴重な経験だった。
そのころ青果の商売が年々難しくなっていくなかで、隣にあったお花屋さんに何となく将来性が感じられたことも、花の商売に興味を持つ一端となった。